気持ちデータの観察考察

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演劇 ハイバイ「て」の感想文 ー視点が変われば真実も変わるについて

(鑑賞2018年8月・更新2018年9月)

後輩の女の子と観劇後にカフェで振り返り会をしたので、今回はその会話から一部を文字起こししてみました。

 

1、視点が変われば真実も変わる

(後輩)「同じ時間を2度、繰り返す」というのが特徴的でしたね。

「うん、よく練りこまれた構造だったよね。」

(後輩)まず次男の視点で物語の骨子をいったん最後まで見てから、母親の視点でおさらいするような感じで見ました。

 

「その視点の変化によって“印象が変わるシーン”がポイントだったね。次男のいない空間で、家族のそれぞれが、母親にしか見せない表情をして話しだしたりすることで、物語自体の印象が大きく変わったりして。
つまり、一巡目の次男から見えてる景色は浅いんだよね。それが二巡目になって初めてわかる。」

「この“見え方が変化する”ことの原因となる事例たちが絶妙で、リアリティがあった。ささいな気づきの欠如みたいなことで、心のすれ違いにつながるんだよなーと胸につまされたり。」

 

(後輩)わかります。たとえばそれは、母親の落としたハンカチを次男が軽率にボロボロだとかけなしてしまうのだけれど、そのハンカチが実はおばあちゃんのハンカチで、長男は実はそのときの次男の軽率な言動に物語の序盤からすでにひっかかっていた、とか、そういうシーンですよね。
相手の気持ちを正確に知るむずかしさを感じました。

 

「うん、そうだね。あとは、それに加えて、“ふたつの視点で同じ現象を観させられること”によって、“これが正解という真実”なんてものは実は存在しえないんだ、ということも、この作品は提示しているのかもしれない。」

 

(後輩)どういう意味です?

「たとえば、“長男がどのタイミングで泣いたのか”という話題があったけどあれは、事実上は“火葬場に着いたあと”だったのかもしれないけど、心理上からみると、母親が言ったように“火葬場に行く前から”だったのかもしれない。どっちが正解だったと思う?」

 

(後輩)うーん、わたしとしては母親のいうように「火葬場に行く前から」だったんだろうなと思いましたが、でも次男たちをその説で説得しようとしても、信じたりはしないでしょうね。

「もともと長男に対して描いているバックグラウンドのイメージが、母親と次男では大きく異なるのもきっと影響しているよね。」

 

(後輩)はい。次男からすれば、長男はもともとおばあちゃんのために泣いたりなんてしない性格にしか見えてないですものね。
長男に聞けば答えはあるのかもしれないけれど、解釈みたいなことはけっこう誰の視点で見るかによって左右されるということですね。

「この“視点を変えて見ることによって正解さえも変わる”という感覚について、日常生活のなかでも日々きちんと過敏でいないといけないし、実体験としても蓄積させていかないと、“他人の気持ちをくむ”という本質はつかめないのかもしれない。そういうことを考えさせられる場面でもあったな。」

 

「あと、技巧的に気になったのは、せっかく物語を循環させてるのに、大部分はけっこう重複していて、同じシーンを2回繰り返してるだけになっちゃってる点。次男と母親、ふたりとも同じ空間にいた時間が長かったから、それだとそりゃそうなっちゃう。
ああいう物語構造にすると、脚本家はもっと“わかりやすく差異のあるシーン”をたくさん見せたくなっちゃうと思うんだよね、せっかくだしとか思って(笑)
でもこの脚本家はそういうことにはとらわれ過ぎないように注意して描いているんだろうなと思えた。」

 

2、“ありがち”を起点に

 

(後輩)でも総論すると、『こんな切り口は初めてだなー』とか『ここには心揺さぶられたなー』とか強く思えたかというと、前評判ほどは、心に響くポイントはなかったように思うなあ。

 

「そうなの?期待はずれだった?」

(後輩)いえ、演劇自体は楽しめたんですけど、なんというか想像のつく範囲の家族像のひとつかなというか。
父親は異常だし、兄の性格もゆがんでるし、姉の悩みとか、母親の悩みとか、でも“どこかで見たことがある”というか。共感性が生まれることには同意するんだけど、なんというか、驚くほどでもないというか。

 

「つまり、ありきたりだったと。」

(後輩)いえいえ、悪い印象ではないんです。鑑賞してなにか大切なものを見たなという手ごたえは残ってるんです。
「もっと驚かして欲しかった」とか「斬新さが欲しかった」とだけ言いたいわけじゃないんです、うまく表現できないけど…。

 

「ちょっとじゃあ一緒に整理してみよう、まず、キーワードをあげてみるね。(紙と鉛筆)」

(後輩)はい。

 

「まず、父親が暴力的で、家族を殴るし、お金を家に入れない。長男は子供の時から親に暴力を受けてたせいで拗ねて育ち内向的である。姉は家族のためにと思うばかりに視野が狭くなりがちで、みんなのためにと本人は心底願っているのだが、実は自分のためにが強すぎて空回りがちである。末っ子はいま一番大事にしてるのはバンド活動で、無邪気で夢見がちである。母親は、母親がもっとみんなを仲介して丁寧にコミュニケーションすれば改善できる局面があるはずなんだけど、大切なところで黙ってしまうクセがある。そして、痴呆でぼけてしまった祖母に、名前も顔も次々忘れられていくことに内心傷ついている家族。」


「ほら、こうやってキーワードを抜き出してみたら、“なんかありがちな感じ”というのはこういうことでしょう?」

 

(後輩)そうです!少女マンガなどでもどこかで読んだことあるキャラクターたちです。

 

「そう。でも、ここのフェイズまでは“ありがちにわざとしている”という目で見ておく必要がある。作者も絶対それには自覚的だし。」

 

(後輩)あ!作者も自覚的。

 

「うん、ぼくらがたった1回観劇して感じることなら、もう数百回稽古してる演出家からしたら、絶対自覚的。で、この作品のポイントは、『ありがちなことをありがちな話のまま』で終わらせないで、そこを起点にして『現実的な細部を積みあげていくことで、家族それぞれの人間らしい手触り感をうきぼりしてみせる』ということなんだと思う。
そこの手触り感が成功すると、鑑賞者側は、ひとつひとつのディテールのどこかに、自分自身の過去の思い出がフラッシュバックして、自らの物語を喚起させられる装置として機能している、ということなんじゃないかな、と思う。」

 

(後輩)たしかによく「家族のことを考えました」という感想を聞きますよね。


3、家族唯一の共同作業の賛美歌

 

(後輩)印象に残ったシーンはどこでしたか?

 

「一番は、最終幕のシーンが印象的だね。
冒頭に出てきた祖母の火葬のシーンに戻ってきてのエンディングなんだけど、このエンディングが、ふつうに考えたら“ふざけすぎなんじゃないの”と思えたのね。
頭のおかしい神父がでてきて、みんなで歌を歌おうとなって、棺をかつぎ、火葬の穴にきっちりハメられないから「もう一度やりなおし」とやりとりするシーン。家族みんな口々にののしり合いながら、次こそハメるぞとあーだこーだ言いながら。そして家族大合唱の讃美歌。
最後まで登場人物たちに感情移入はしきれずにきたんだけど、あそこのシーンがきて、急に感動しちゃって。」

 

「なんでなんだろうと考えると、あそこのシーンまできて、はからずもはじめて、家族の共同作業がおこなわれたということなんだろうと思う。
あんなに“家族みんなで”とがんばってもすれ違いすれ違いでなかなか実現できなかったのに、最後の最後でまったく他人の頭のおかしい神父が導いてしまうなんて、“奇跡のような縁”。」

「長男が「おい、もっとちゃんと持てよ、バランスおかしいだろ!」と怒鳴ったり、妹が「持ってるよお」と泣きべそかいたり、母親が持とうとすると長女が「いいよ、わたしが」と代わりに背負ったり。もうそれはまさしく“家族”というメタファーで、だれがどれだけ背負うかというやりとりに聞こえるし、文句いいながら、ケンカしながら、笑ったり泣いたりもしながら、それでも落とさないようにと支え合って持ち運んでいくもの。
そういう家族それぞれの感情があふれていて、ああいいなあと、ここのシーンは感動的だったな。」

 

(後輩)そのシーンをそう解釈するなら、長男も実は彼なりにどれほど家族思いだったかというのが見えますよね。

 

「うん、長男は、次男から見た視点とは全然ちがう印象になる代表格だよね。彼は幼いとき、心理的な逃げ場として祖母が救ってくれていたんだろうし、痴呆がでたあとも陰ながらに誰よりも祖母を看病して、おばあちゃん子だったのがよくわかったよね。
彼は彼なりに、家族を支えないとと思っているのがよかった。」


(後輩)長男は、ほんとはいい人だったんだなーとは気づけました。

 

「いい人なのかまではわからないけどね(笑)少なくとも家族を思う気持ちを、実はうちには秘めてるというところまでは、そうだろうね。
でも、彼は、もっとうまくやれるよね。
社会人になり、父親は高齢化し、家族はやり直したいと内在的に思ってる。いまこそ家族の中心にたてるはずのポジションにはいる。
そこの課題感を突破できるのかが、彼の今後の人生の課題になるんだろうね。」

 

(後輩)なんか、最後はお兄ちゃんの未来の心配になりましたね。あ、終電の時間です!急ぎましょう。