気持ちデータの観察考察

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映画「勝手にふるえてろ」の感想文 ー他人との距離の内部化/外部化とその境界線について

(公開2017年12月・鑑賞2018年8月・更新2018年9月)

 

すごいよかった。
映画を通して、人と人との関係性における「内部化」と「外部化」と「その境界線」について考えさせられたので、かたよった視点だけどそこにフォーカスをあててメモしておく。


1、松岡茉優すごいよかった

いい女優だってうわさには聞いていたけど、松岡茉優の魅力をはじめて体感できた気がする。1995年生まれだからまだ23歳。最前線の売れっ子女優のオーラもあるし(ちょっと石原さとみにも似てる角度がある)、一方でマイナーなサブカルチャーな空気感もまとっている。(満島ひかりとかはそういうタイプと思う)
オタクの役だから余計にか。
主人公のヨシカ(松岡茉優)は、音楽はピコピコ打ち込み系を大音量。大きなヘッドホンで。休み時間に教室の隅でマンガを描いてる女の子。ラジオ番組のヘビーリスナー、「まぢ神」とかつぶやきながらクスクス笑って。空想オンナ。脳内召喚。深夜のネットサーフィン。趣味の多様性、アンモナイト、古代の化石コレクション。


2、人は変われる生き物である

オタクではあるが、でも生活はふつーにきちんとしている。
洋服のおしゃれは行き届いているし、部屋もポップにまとまっていてかわいらしい。美味しいものを食べるときは顔をほころばせるし、行きたい場所はクラブだし、登場人物の「ニ」(渡辺大地)がはじめて話しかけてきた頃から異性拒絶みたいにコミュニケーションがヒドイわけでもなかったし。お弁当をつくってきてデートみたいなピクニックもできる。

 

まったく普通の女の子。
つまり、すべての人にも“変われる可能性”はあるというメッセージだ。
ヨシカ(松岡茉優)は高校時代の回想シーンだとひとりも友達のいない根暗な女の子だったけど、社会人になったヨシカはこんなにも“まったく普通の女の子”。

 

誰の過去にも消せない烙印のような忘れたいいくつかの時代時代があるかもしれないが、人は変われる。
映画を見ながら、ぼくにも、すごくポジティブな記憶がある時代もあれば、すごくネガティヴな記憶のある時代もあるなあと、いろいろ思い出したり。
そういうキッカケにもなる映画だった。

 

映画とか鑑賞作品に触れるのは、物語を疑似体験しつつも、そうやってぜんぜん違うことに想いを馳せたり、日常生活だとなかなか考えないことを考える時間になったりするのも貴重だと思う。

 


3、“オタクの名前づけ”と“外部と内部との境界線”

そのオタクらしい能力発揮の延長線上で、ヨシカは“人にあだ名をつける”。
上司をクイーンの「フレディ」と呼んだり、数字の2がきちんと書けない霧島には「ニ」とつけたり。
名前を自分なりにつけることで対象を自分(たち)のテリトリー内のものとして、再定義をする。もとの形状のままだと外部の存在だが、あだ名をつけるという行為によって、内部化する。

だからこそヨシカの高校時代のあこがれの男の子「イチ」が、同窓会のシーンで「わたしの名前を覚えてくれていなかった」という事実が判明した瞬間に、こなごなに崩れ落ちるのだった。

10年ものあいだずっと片思いをしてきて何度も「イチ」との思い出のシーンを大切に大切にリフレインさせて過ごしてきたのに、「イチ」から見たら「わたしは外部であったのか」と。

「名前を覚えてもらえていなかったこと」に、とてつもなく、ヨシカは傷つく。

 

基本的にヨシカは、自虐的なほどに自己客観視する能力は高く、同窓会でみんなが自分の存在を覚えていないことにも想定内で臨んでいるし、だからこそ偽名をつかって同窓会を企画したんだし。
それなのにヨシカは、イチに名前を覚えてもらえていなかったことには、とてつもなく傷ついたのだった。「イチにだけは」と期待してしまっていたのである。いや、期待というよりも、ここは“名前を知らないとは思いもしなかった”というのが正しいのかもしれない。

あんなに常に「外界と内界の境界線」を意識して生きてきた子なのに。イチに「運動会で話しかけてくれたこと、覚えてなんてないよね?」と、そこまでは謙虚に質問できたのに。

 

「イチ」は、運動会の日にふたりで言葉を交わしたのを“忘れられない瞬間だった”と言って、“覚えていてくれた”。それに同窓会でふたりきりになった明け方のベランダでは、アンモナイトの趣味の共通性に“強い共感を感じる”と言って、“笑いかけてくれた”。恋がはじまるパーツはそろっているようにみえる。「イチ」は、スタート地点に立とうとして、素朴に名前をたずねただけだったのでは、と、ぼくなら思う。

名前の認知にそこまでこだわらなくても。

しかしヨシカは、とてつもなく傷つく。


4、どこまでが空想か?

この「イチ」が名前を覚えてくれていなかったと知った次の瞬間から、ムードは一変する。
映画の冒頭よりずっとヨシカが楽しく明るく会話し続けてきた街の人々が、話さなくなる。
「その人たちとは、一度も話したことなんてなかったよ」とヨシカが、説明をはじめる。ミュージカル調のリズムに乗せて。
この映画のもっとも重要なシーンといえる。

 

「外界」である街の人々に、あだ名をつけることによって、空想上で「内部化」し、想像のなかでヨシカは沢山の仲間に悩みを告白してきたのだった。その人たちのクセや特徴や行動パターンから、ヨシカが自分の中であだ名をつけて、“自分だけのキャラクター”にしてきたのだ。であれば「ニ」もそうだ。つまり「ニ」は、かなり初期からヨシカはもう、霧島を無意識のうちに“自分の中に「ニ」として内部化”させていたのだといえる。

 

このシーンが挟まれたことによって、この映画全編にわたり、
はたして「どこまでが現実で、どこからがヨシカの空想だったのか」と、鑑賞者側からはその“境界線”が強烈に曖昧になり、なにも信じられなくなる。

 

ひとつずつ、ヨシカが社会復帰するのと足並みをそろえながら、“現実との境界線がどこにあるのか”を確認する作業がはじまる。
ヨシカの会社の同僚のくるみ(石橋杏奈)は実在した。大ゲンカをしながらも、くるみはヨシカを現実世界とつないでくれる存在になる。
そして問題は「ニ」だ。
彼は、存在しているのか。ヨシカに実際に告白してくれたのか。
「ニ」さえも空想の産物だったとしたら救いがないと思って、それが判明するまでは見ていてつらかった。

 

でも、「ニ」は存在した。

他人をだれひとり、宅配便さえも踏み込ませないヨシカのアパートの玄関口の境界線に、むりやりカラダをはさみこんで「ニ」は、突入してくるのである。


5、名前に左右されるということ

あと、最後に余談的だけど、とてもキーになるシーンとして。

オカリナを夜な夜な吹くのであだ名は「オカリナ」(片桐はいり)とつけたアパートの隣人も、実在していたし、しかもヨシカとオカリナは空想のあいだがらではなく映像のとおり日常会話もしている実在的な関係だった。

 

映画の最後のほうのシーンで、
「オカリナ」は、“岡里奈”と書いて“オカリナと読む本名だった”と表札で判明する。
それでオカリナを好んで吹いていたのだった。

 

片桐はいりがいう、
「名前に支配されてきた人生なの。名前に左右されるって、大切でしょう?」

 

ほほえましくて、笑ってしまう。
そしてそれと同時に、
ここまで考えさせられてきた
「内部化/外部化」と「あだ名をつける行為」というふたつの重要な関係性は、前後関係があいまいになるというオカリナからの課題提起を受け、ここで大きく崩れ去るのである。