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演劇「きらめく星座」(こまつ座・井上ひさし 脚本)の感想

2017年11月に「きらめく星座」を新宿まで観に行った。井上ひさしの戦争を描いた代表作のひとつ。

2014年版で主人公ふじ役を演じ、読売演劇大賞最優秀主演女優賞を獲得した秋山菜津子が今回も演じた。4つの要素で感想をまとめる。

 

1、戦時下でも「人間はたくましい」。

同作は、井上ひさしの代表連作である「昭和庶民伝三部作」の1作目にあたる。浅草にあるレコード店「オデオン堂」を舞台に、太平洋戦争前夜までの1年間を描く。
作品を観終えて一番心に残るのは「戦時下であっても庶民の“日常生活”はたくましく存在している」「まるで現代と変わらずに」という確認だ。
これは2016年に評判になったアニメ映画、「この世界の片隅に」と通底するテーマといえる。
戦争未経験者の世代からすると、「戦時下」と聞くとそれだけで、とてつもなく不幸で暗い時代を想像してしまうが、決してそうでもないという驚きがまずある(80年前後の生まれだが、幼少期に「火垂るの墓」を観たのが固定観念を生んでいる気もするな)。たかが「数十年前の人間」と「現代の人間」の感受性は、そうは大きく変わらないし、現代と同じようなことで笑い、同じようなことで傷つきながら、“生活”を過ごしているという事実をまず確認することになる。
でもそれは、もし明日急に戦時下がやってきたからといって、私たちが突然明日から冗談のひとつも言わなくなるのかというとそんなことは決してないのと同じだ。そう想像ができてしまうと、ふいに「戦時下が僕らにとっても身近なこと」とも気づけて、はっと息を飲むのである。

2、日常生活の象徴として「音楽」が鳴りわたる。

とはいえ「戦時下」では、平和な時代なら担保されている「個人のささやかな自由」が奪われる。
たとえば空襲時は部屋の電気をつけてはならない。日常的に自由に歌を歌うことはできない。
特に、敵国が発祥の地であるジャズやピアノはご近所の目を気にしながら影でコソコソ聴かないとならない。でも音楽は息づいている。赤紙が届いて戦地に旅立つ前の若い兵隊が「最後に歌謡曲を思いきり聴きたい」とオデオン堂を訪れる。みんなで大合唱して歌う流行歌。ささやかな幸せ。音楽が持つ明るさと素晴らしさ。

 

さて、21世紀にも世界戦争が起こりえないとは言いきれない。

そのときに日本国内では「敵国の音楽は鳴らすな」というような「精神論的統制」が現代的自意識の確立されたのちの現代日本でも起こりえるのだろうか。日本人なら演歌だろといった国民的共通価値観に立ち戻ったりするだろうか。はたしてそうなるイメージはまったくつかないが、戦争という異常な精神状態が何をうみだすのかは見当がつかない。
それでももう、こういう「国家主義的な形」での規制は起こりえないだろうなと僕は仮説する。団塊の世代までにはもしかしたらそういう「こうあるべきという古風さ」がまだ精神性に内在している可能性がある気もするが(それは団塊自身というより団塊の父世代の遺恨を想像している、というと怒られそうだが)、もうその下の代が最古参になったら日本式ナショナリズムの概念はなくなる気がするな。日本とはこうあるべきという概念自体がうすれてしまっているからだ(団塊ジュニアまでいくともう何もない気がするな、“何らかの回帰”が逆にありそうだが)。

ただし、「いままったく想像しえない規制」が発生する可能性はある。戦時下とはそういうものなのだろう。「21世紀の戦時下では、なにが庶民から奪われ規制されるか」。想像してみるのも一興だ。

3、戦争と「広告」の共通性。

オデオン堂の居候である友人は、広告代理店に勤めている広告文案家という職業。「戦時下では広告代理店の仕事はあがったりだ」と彼はなげいている。
「広告はものを売るために打つものだが、売るものがないんだから話しにならない」。物語の後半には失業してしまい、知り合いを頼って引越しすることになる。

当脚本のメッセージのひとつには、「戦争による洗脳の恐ろしさ」がある。
その象徴(シンボル)が長女の婿である高杉源次郎で、彼は戦地で右手を失い戦線離脱したが骨の髄まで軍国主義者。しかし悪気はない。そう教育され、そう信じて生きてきただけだ。とりまく周辺環境がすべてそういう常識だったのだから疑いようもないのである。
それは時に「広告手法」と同様だ。
そういうものだと信じこませ、そうありたいと憧れさせ、そうしたいと望むようにと工夫された広告。
広告とは人を動かすチカラである。商品を購買したいと欲望を刺激することもできれば、軍国主義や戦争国家への抑揚としても機能させることもできる。だから悪いというわけではなく「使い方次第」なのだ。そこには正しい思想がいる。人をどう動機づけたいのか。その広告を読む前と読んだあとで、心にどんな変化をもたらせたいのか。
ネット広告も登場した21世紀の「あふれかえる広告」にはそんな危機意識も誇大思想もありはしないけれど、根源的な“広告の言葉”とは戦時下における軍国主義的統制と通底するという“怖さ”を、「広告文案家に准ずるすべての職業人たち」は現代でも忘れてはならない。

4、「人間は奇跡そのもの」である。

この演劇のオープニングとエンディングはいずれも、家族みんなでガスマスクをつけたシーンが描かれ、少しこわい。今回はチラシにもなっている。ガスマスクをつけると誰が誰だか区別がつかず、無感情に見える。非人間的である。戦争が人それぞれの個性を奪ってしまうのである。 そうであってはならない。

当戯曲のもっとも大切なシーンのひとつに「もしも人間という商品の広告を頼まれたなら、『人間を宣伝する文案』をどう書くか」と語られる場面がある。長台詞の最後の部分だけ引用する。

私たちがいる、今生きているというだけで、もうそれは奇跡の中の奇跡なのです。こうして話をしたり、誰かと恋だのけんかだのをすること、それもその1つ1つが奇跡なのです。人間は奇跡そのもの。人間の一挙手一投足も奇跡そのもの。だから人間は生きなければなりません。

 

広告の根源的な役割は、ここに表現されているのではないか。この3時間におよぶ戯曲が伝えようとしているメッセージはこの台詞に集約されている。戦時下だろうが、戦後だろうが、人間の奇跡の下には変わらないのである。だからこそ、いつの時代でも、すべての人々が、「きらめく星座」なのである。

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