村上春樹「騎士団長殺し」②終わりが明確でない仕事について
仕事には2つの種類があり、それは終わりが明確な仕事と明確ではない仕事だ。
「終わりが明確である」というのはたとえば時間に区切りがあるタイプの仕事がそうである。21時になったら営業時間が終わるとすれば、「終わりは明確である」と呼べる。対して「終わりが明確でない仕事」というものが現代にはたくさんある。画家である主人公もそのひとりで、絵には完璧な終わりはない。それは村上春樹自身の小説家という職業もメタファーされていることがうかがえる。終わりとはつまり「完成」のことだが、手を加え続けようと思えばいくらでも加え続けられるし、基本的には時間をかけて手をいれたほうが品質はよくなる傾向がある。しかし、ある時間を境に過剰になりはじめ、それに気づいても後戻りするのは難しくなる。それに芸術家でない限り、時間をかけたぶんだけ本来は対価としての給料が発生するので永遠に時間をかけるからといって費用対効果があがるというものでもない。売値がある程度基準があるなら、その売値にあわせた工数で納品する必要もある。
では、最適解はどこにあるのだろうか。今回の作品ではこう語られるシーンがある。引用する。
未完成と完成とを隔てる一本のラインは、多くの場合目には映らないものだから。しかし描いている本人にはわかる。これ以上手はもう加えなくていい、と作品が声に出して語りかけてくるからだ。ただその声に耳を澄ませているだけでいい。218
プロフェッショナルとは、完成の区切りを見極められる人ともいえるのではないだろうか。もっとやれる、もっとやれる、という質への追求もプロフェッショナルな感じがするが、本質的にはクオリティというのはその作品ごとに必要量というのが一定決まっているはずで、そこの見極めが最重要なのかもしれない。「飽きる」というのも大切な要素だろう。レポートする前に飽きてしまっていると、よいレポートにはならない。感情の熱いままにレポートまでは終えられるよう、しばらく飽きない程度の時間確保も必要だ。
この「完成と未完成」とのあいだにある境界線のようなものは、あちらとこちらをへだてるボーダーラインとも呼べる。境界線を可視化させたものといえばたとえば国境だが、そう考えると可視化が一律良いものでもないように思える。セクショナリズムの発生源には必ず境界線の可視化がある。自分がaなのかbなのかという概念が区分線によって明確であればあるほど、群生のヒト科はコミュニティをつくりたがる。境界線には、あちらとこちらがあるが、自分の所属する方を肯定しようとしてしまう。これは最初の課題提起でいうと、「終わりが明確な仕事」の仲間だと考えられる。
大切なのは、「終わりが明確ではないのに、自ら終わらせられる」ということだ。
そう考えていくと、どこかのタイミングでパッと後ろ髪もひかれず引退しちゃうような大胆さというのは本当の意味でプロフェッショナルなのかもしれない。それにはただ、耳を傾けるしか方法はない。