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テレビドラマ「カルテット」が気になる。③テーマ:価値観

カルテットの第6話は、問題回だったと思う。表層的には「夫婦間の価値観の相違」というベーシックなテーマ設定なんだけれど、なんというか、もっと胸の深いところをざわつかせられて本質的な課題提起がされたように感じるので、再整理してみる。

気持ちがザワザワして胸が苦しくなった。これはいま何を見せられてるんだろうと、途中から頭が混乱してくるような体験だ。放送時間枠のあまりに多くを、真紀さん(松たか子)とその夫(クドカン)との結婚生活時代の回想に当て過ぎている。ほぼスピンアウトといえるこの物語を、ドラマ全体の中核となるであろう第6話目の中央にどかんとビルトインさせた状態は、テレビドラマの常識にとらわれない構成と言えよう。
「すれ違い」。

延々と長い時間をかけ、いかに2人がすれ違ってきたのかを丁寧に丁寧に描いてゆく。手法的には、すれ違いあった当事者ふたりが「対面で対話し回想」するのではなく、それぞれが違う場所で(真紀さんは教会で、夫はカルテットの住む別荘で)、当事者ではない「他者を相手」に、同時並行にパラレルで思い出を語るという形式によって「すれ違いの歴史」が告白されていく。真紀さんは義母相手に、夫のほうはすずめちゃん(満島ひかり)相手に。(それ自体もまた一種のすれ違いといえる。)
でも、「すれ違いの歴史」とは呼んだものの、実は真紀さん(松たか子)からしてみれば正直なところ、すれ違いをした感覚がそもそもその当時には持ちえていなかったという点は大切である。真紀さんはある日、偶然居合わせた居酒屋で夫の会話を耳にし、そこではじめて夫婦間のすれ違いの存在に気づく。ふたりのすれ違いは「平等ではなかった」のである。

 

このすれ違いの要因を簡単な言葉に要約すると「価値観の相違」だ。

つまり見方によっては「どこにでもよくある話」とも言える。
でも、こんなにも今回見ていて胸が痛くなってしまったのは、この価値観の相違を「あるカップルの一事例」としてではなく、もっと「普遍的な問題」として脚本家から提示されたからだと思う。どうあがこうとも他人と他人とのあいだでは「永続的に価値観が合う」「価値観がぴったり合う」というようなことは、宿命的に実現不可能なことなのだと思い知らされるエピソード群だったと思わないか。
視聴者によっては、いやいや「うちの家族には縁のないことだ」とか「つきあったばかりなので関係ない」とか、それぞれ思うところがあるだろうが、実はそういう問題ではない。もっと根源的だったと思う。たとえばひとつは、クドカンは「ずっと恋人同士でいたかったのに、家族になってしまった」と言い、松たか子は「家族になれて幸せだった」と言った。「大好きなバイオリンをずっと弾いていてよ」と言い、「私は料理をつくって帰りを待っているのがいいの」と言った。映画や詩集や食べ物といった趣味の問題にフォーカスがあたっていたように錯覚するが、それよりも問題は根本的なところでニーズが違うということだ。この「埋めがたさ」に真摯に向き合わなければならない。性差の問題も大きいと思うが、ここでは省略する。

あと、客観的にみてこの同時告白、夫のほうから見て「趣味のセンスの良くない奥さんでガッカリした」「だから逃げてしまった(妻からみると逃げられてしまった)」という物語の温度感のほうがやや強く印象に残っていないだろうか。私はそう思う。脚本家はその目線になるようエピソードを積み重ねていると思う。

鍋敷きにされる詩集。いねむりされてしまう大好きな映画、理解されないシナリオ。寒いので出たくない冬の散歩。できたばかりの評判のコーヒーショップ。配管工事の日程調整。ご近所づきあいの井戸端会議。夕食に流れるJ-POP。

これはでも本当にそうだろうか。夫から見ればそうだが妻から見ればまったく違う見解になるのではないか。

つまらない無名の詩集、わけのわからない映画。ロスからの日本一号店で長い行列ができるコーヒーショップ。浅いクラシック知識。

こういう可能性だってある。これだと実際、見方はずいぶん変わりはしないか。

現にこの夫は、配置転換でクリエイティブからはずされ、不満を影で言って会社も勝手にこっそり辞めて、転職先もきちんと決められないで公園で時間をつぶしているのだ。奥さんにさえきちんと自分の本音がいえず、その場しのぎで合わせて相槌を打ってるうちにどんどん勝手に不満をつのらせているモテない男性像なのだ。見た目もさえないし、論旨にメリハリもない。

 

実際には、クドカンはだめな夫だったのだと思う。まきさん(松たか子)は、男を見る目がなかったのだ。男性との恋愛経験も少ないのだろう。それでもなお第6話のパラレル告白を通じて男性の視聴者は、まきさん(松たか子)のセンスの悪さを見て「こんな奥さんとは結婚したくないな、結婚は墓場だな」という感想を抱いたと思うのだが、そこは勘違いも混じってしまっていると思う。このパラレル告白に際し、夫(クドカン)は「縁もゆかりもないすずめちゃん(満島ひかり)」に自分が好きなように語っている(そもそもこの夫は入院中の家森さん(高橋一生)には妻にベランダから落とされたと自分の都合の良い嘘を平気でついて話した前科がある)のに対して、まきさん(松たか子)は義理の母のもたいまさこに(つまり夫の実の母親に対して)息子の失踪のことを話している。もたいまさこは一度息子に捨てられた経験をしていて傷ついた過去があると、事前のエピソードで語られていたから、まきさん(松たか子)は息子の失踪をどう伝えるかよく吟味しながら言葉を選んで話したろうと思う。この話している環境に決定的な違いがあるなかで、その両者の思い出をパラレルでつなぎあわせて「過去のすれ違いの歴史」を我々は提示されて鑑賞したのであって、その情報ソースのレベルには根本的に差異があったということに、注目する必要がある。そこも加味してふりかえってみると、いかにまきさん(松たか子)が人格者で、他人の陰口を叩かず、運命を真摯に受け止めながらも、きちんとした生活を清潔にまっとうに過ごしていることか。

価値観が「合う」か「合わない」かとは関係なく、なぜその人と生きていくのか。価値観には「寛容か妥協か」しかないと覚悟すべきだ。そのときに、何を信じるのか。ワクワクやドキドキしかないのではないか。紙切れ一枚のためではないはずだ。