気持ちデータの観察考察

専門はマーケティング分野とかデータ活用。生活者の暮らしはどうデータ化が進み、どう活用され、どう幸せにつながり、それにともない人の気持ちや感情や人生は、どうアップデートされるか。

「この世界の片隅に」が気になる。

この世界の片隅にがすごくいいと聞くから見に行ってみたら、悲し過ぎて涙もでせないレベルだったので驚いた。ネタバレありの感想文。

 

物語の説明は他にゆずる。ちょっと多数派とは違った視点で、気になった点を5つに整理してみた。

 

①現代の私たちと「地続き」である戦争
これまでいくつもみてきた戦争映画とこの映画が一番違うところは、戦争の時代性という非日常の中にも、ごく平凡な「現代と地続きなのだと感じられる日常」がそこにも普通にあったのだなという事実の伝承だ。

学校に通ったり、絵を描いたり、畑を耕したり。料理を工夫したり、遊びを発明したり、町内会で集まったり。

だからこそ余計に、戦争に対して「他人事じゃないんだ」とか「それはごく当たり前に、僕らの身にも降りかかる可能性があることなんだ」というように、戦争をより身近なものとして想像させられるしかけになっていたように感じる。

今の国際化社会になり、各国で人権が広く認識されている現代、なかなか先進国間の国対国の戦争は起こりにくいように思うが、もし起こったとしても、けっこう国民の私たちはこの映画の中の民衆のように、それなりに戦争を自然に受け入れつつそれなりの幸せを見つけたりしながら暮らそうとするのかもしれないなぁ。と考えさせられた。それくらい営みが自然体だった。

 

②人は「コミュニティ」にのみ救われるのか

その戦時中の人々の暮らしのなかで印象的だったのは、戦争という非常事態の真っただ中においても、人は「コミュニティ」をつくり、精神的にはそのコミュニティによって救われていくのだな、という気づきだ。

公益の防空壕をつくりゆずりあって入ったり、配給当番を交代制で受け持ったり、町内会では隣町のために草鞋を婦人部でつくったり、人々が支え合って生きている風景が描かれていた。

人類は群れる生き物である。狩猟時代や縄文時代のころからヒトは村社会を形成して、助け合いながら自然や外敵から身を守り生きてきた歴史がある。

もしも明日に戦争がはじまったりしたら、殺されちゃうかもしれないし、兵隊として駆り出されるかもしれないし、治安も乱れて危険だろうし、そう考えると社会から逃れて山奥にでも隠れ生き延びようとするかもしれないと思うのだが、映画の中の人々はそんな悪あがきはしないで、普通の町で、普通に生活を営んでいる。

スクリーンを見ながらぽつぽつと思う、「そうか、山奥に逃げて生き延びたところで、ひとりぼっちになって、なにがうれしいんだろう、幸せってなんなのだろう」と。

映画の中の呉の人々のように、人と人とが心配しあったり支えあったりするその姿は、人類の根源的な「人間らしさ」をあらわすひとつの象徴的な形なのだろうな、とあらためて感じさせられた。

 

③「大きな秩序」と「小さな秩序」について。

ではなぜ戦争など起きるのだろう。

生活者はだれも戦争を望んではいない。たぶん、敵国の生活者も望んでいない。夜に空襲警報がなり、怯えたり怖れたり我慢する日々はつらい。
各国の生活者同士の願いが尊重され、国際的な「秩序」がきちんと守られれば国際戦争など起こりえないのに、戦争は長いあいだ世界で繰り返されてきた。なにかの強い力学が働き、誰かの判断によって。

「世界の秩序」が崩れている状態。

しかし視点を呉にフォーカスしてみよう。

狭いコミュニティの田舎町のなかでも隅っこのほうにある狭い畑で、警官が、水平線を写生する若い女性(主人公)を叱りつけるシーンがあった。憲兵は家にまで乗りこみ、家族すべてを怒鳴りつける。誰も逆らわず謝罪する。ルール規則違反はあってはならないのだ。

そこには、コミュニティ内の「狭くも徹底された厳格な秩序」があり、生活者たちはその秩序を受けいれて過ごしている。限られた食物、限られた製造リソースをきっちり使い倒さないと軍事都市呉が高い生産性を維持できなくなるため、ルールは徹底されていて、それを守ることで生活が保障されている。誰かが乱すとドミノ倒しのように崩れてしまうかもしれないので、飴とムチで見張られている。

世界の大きな秩序は乱れているのに、コミュニティの小さな秩序が厳密に機能しているのを見て、戦争というのは不思議なアンバランスを生むのだなと考えさせられた。

 

④子どもは守られなければならない。

もっとも悲しかったのは、子供が亡くなるシーンだ。

子どもは素朴で、好奇心に溢れ、未来は希望に満ちている。子どもはいつの時代にも希望だ。

でも子どもは注意が散漫だし、経験値が少ないのでリスクが管理しきれない。だからこそ、子どもは大人に守られなければならない。可愛らしく魅力的な外観をしているのも、子どもがか弱い生き物で、守られなければ生きていけないからだ。

子どもを守るのは大人の責任だ。戦時であっても、それは普遍的である。

 

⑤平和の大切さに、ポップコーンを食べてられない。

見終わって、映画館をでて、夜空をみあげたときにふと思う。そこに爆撃機がたくさん飛んできたとしたら、僕らはどうするだろうと。

崩れ落ちるビルをすりぬけて、広場のある場所を探してひとり走って逃げるだろうか。もしくは思考回路が止まりあきらめてたちつくすだろうか。できたら、まわりであわてふためく人たちを先導することまでできるといいのだけれど。

戦争が身近にない平和の大切さを実感する。

「この世界の片隅に」は反戦的な要素はないと論じられているのを見かけたことがあるが、そんなことはないと思う。これほど平和の大切さと危うさを感じさせる映画は反戦の力を持つだろう。想像力があるならば、今日の日常生活のまま明日から戦時がはじまるのかもしれないという恐怖感が残るだろうし、感受性があるならば、呉の町の人々が口にも顔にもださないけれど、戦争の恐怖にぎりぎりの精神状態でいる心に共感してしまうだろう。

ポップコーンを食べては、見ていられないはずだ。